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Channel: 百寺巡礼・名庭散策
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94.祇園甲部歌舞練場庭園

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 祇園甲部歌舞練場は祇園の花見小路通りにある都をどり開催場です。当初は、花見小路西側にあった建仁寺塔頭・清住院が歌舞練場として1873年に改造され、2回目からそこで開催されました。その後1913年に現在地に移転し、1950年から3年間の修理の間は四条南座で上演された以外、 都をどりは毎年4/014/30に、この歌舞練場で上演されています。京舞井上流は江戸後期に始まる京都の座敷舞の一流派で、三世・井上八千代が1872年の京都博覧会の余興として、祇園町の芸妓・舞妓による都をどりを振付して成功を収め、祇園町の舞の師匠となりました。今回、春宴四季巡昔話(はるうたげしきめぐるものがたり)八景を初めて鑑賞しました。
 最初の写真は歌舞練場本館の千鳥破風の玄関です。次は別館棟70畳敷の点茶席での、芸妓・市有里さんと舞妓・佳之介さんによる開演前のお点前の様子で、都をどり創設の際に裏千家第11代家元・玄々斎宗室が創案した立礼式点前によって、芸妓と舞妓は椅子に掛けてお点前を披露しています。次の3枚は別館棟と八坂倶楽部に囲まれた池泉回遊式庭園で、織田有楽斎の邸跡にあたると伝えられています。有楽斎の国宝・如庵をまねた茶室の前にある滝石組からの流れが石橋を潜り、灯籠の脇を流れて、鴨と鯉が泳ぐ池泉に注ぎ込んでいます。開演前のお点前を待つ間に、この見事な庭園をゆったりと散策できました。(20134/21撮影)

1.葵祭

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 葵祭は賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の例祭で、もともとは、6世紀の欽明天皇の代に風水害で凶作に見舞われた際に、占いで賀茂神の祟りとわかり、葵を飾り、馬に鈴をつけて走らせて五穀豊穣を祈ったことが始まりとされています。古くは「みあれ」と呼ばれ、参加者や牛車などに二葉葵を掛けたことから江戸時代以降葵祭と呼ばれるようになりました。この葵祭は、5/01の競馬会足汰式(くらべうまえあしそろえしき)、5/03の流鏑馬神事、5/04の斎王代女人御禊神事、5/05の歩射神事と競馬会神事、5/12の御阿礼神事と御影祭を終えて、5/1510時から京都御所内で進発の儀が行われ、宜秋門から出て列を整え、10時半から行列の先頭が建礼門を出発します。
 最初の2枚の写真は本列で、中心となる勅使が乗っている牛車と風流傘です。そのほか騎馬の検非違使、山城使、天皇からのお供え物の御幣櫃を運ぶ内蔵寮の役人たちの列が続きます。次の3枚は女人列で、まず美しい花傘をさしかけられているのは女官の「命婦」です。次は御腰輿(およよ)に乗った第58代斎王代・長瀬摩衣子さんです。次はさっそうとした騎女(むねのりおんな)です。そのほか女別当、内侍、女嬬、童女などの華麗な行列が続きます。この行列は総勢5百名余りで、30分、1キロにわたって続きました。(20135/15撮影)

2.祇園祭

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 祇園祭は八坂神社の祭礼で古くは祇園御霊会と呼び、国の重要無形民俗文化財に指定されています。この御霊会は869年に都を中心に疫病が流行した際に、牛頭天王の祟りということで祇園社司が長さ2丈の鉾66本を立て、神輿を担いで神泉苑で疫病退散の神事を行ったのが始まりとされ、970年から毎年行われるようになりました。その後、応仁の乱で一時中断したものの1500年に先祭として26基、後祭として10基の山鉾が巡行して復興し、1966年から先祭と後祭を統一して、7/1732基の山鉾が巡行するようになりました。まず7/02のくじ取り式で山鉾巡行の順番を決め、7/1013の鉾建てで、伝統の縄締めの技法で鉾を組み立てます。そして7/14-16の宵山では各山鉾に駒形提灯をつけ、囃子方が祇園囃子を奏します。7/17の山鉾巡行のあと、7/24には花傘巡行があり、7/31の夏越祓で全てが終了します。
 最初の写真は、1番長刀鉾で、鉾先に疫病邪悪を祓うという長刀があることからこの名がつきました。生稚児(いきちご)が乗るのはこの鉾だけで、神の領域の境界線に張られた注連縄(しめなわ)を切って進みます。次は5番函谷鉾で、孟嘗君が鶏の鳴きまねによって函谷関を脱出したという中国の故事によります。次は21番放下鉾で天王座に放下僧の像を祀っていることに由来しています。次は22番岩戸山で鉾と同じ車をつけた曳き山で、天の岩戸伝説からきています。次は23番船鉾で、鉾全体が船の形をしており舳先に金色の鷁、艫には飛龍文様の舵がついています。これらはいずれも古例により順番が決まっているくじ取らずの山鉾です。(7/17撮影)

95.京都迎賓館庭園

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 京都迎賓館は千年の都である京都で海外からの賓客を迎えるために、2005年に京都御苑内の御所の東隣に建設されました。歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な入母屋と数寄屋造りの建屋を築地塀がとり囲んでいます。また、数寄屋大工、表具、建具、截金(きりかね)、錺金物(かざりかなもの)、石造工芸、竹垣など多くの伝統技能者の技が生かされ、西陣織や蒔絵、漆細工の調度品が配置されています。
 最初の写真は御所に面した正門です。玄関車寄せから入るとロビー・聚楽の間があります。次は敷地の南側に位置する大会議室・夕映の間の西壁を飾っている愛宕山の夕暮れ「愛宕夕照」で、反対側の東壁には月が照らす比叡山「比叡月映」が飾ってあり、いずれも日本画家・箱崎睦昌の下絵を基に製作された西陣・綴れ織です。敷地東側にある晩餐室・藤の間には、正面の壁に日本画家・鹿見喜陌の下絵を基に四季の花を描いた綴れ織の装飾「麗花」が飾られています。次はその藤の間から見た敷地中央に広がる池泉庭園で、作庭は嵯峨野にある造園業・植藤の第16代・佐野藤右衛門です。次は和の晩餐室・桐の間入口から見た庭園で、左側に池泉を東西に横切っている廊橋が見えます。次は廊橋を渡った東側から見た池で、中央にピンク色の睡蓮が咲き、色とりどりの錦鯉が泳いでいました。今回、今年の一般参観で訪問しました。(20139/04撮影)

96.洛翠庭園

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 洛翠は1909年に、旧南禅寺境内の1000坪の敷地に建てられた明治の実業家・藤田小太郎の旧私邸で、その際に池泉回遊式の庭園が7代目小川治兵衛によって作庭されました。その後、1958年に旧郵政省共済組合の所有となり、職員の保養施設として利用されてきたが、2009年に売却されて日本調剤の研修保養所となり、現在は非公開になっています。藤田小太郎は非鉄金属精錬業の藤田組のオーナーで、藤田組の創始者である長州出身の伝三郎の甥に当たります。
 最初の写真は敷地の西南隅にある不明門(あかずのもん)で、伏見城の城門遺構と伝えられ、4つの菊華紋が嵌め込まれています。次は邸の前に拡がる庭園の全景で、借景となっている東山が見えます。次は琵琶湖の形を模した池を西側から見たもので、下池には瀬田の唐橋に見立てた沢渡、近江大橋の位置に貴石の石橋が架けられており、手前に見えているのは、琵琶湖大橋の位置にある一文字橋です。次は、左側の上池と右側の下池を区切る臥龍橋で、長方形の板石に円形の石臼が並べてあります。上池の東端には竹生島と琵琶湖疏水の取入口があります。次は庭内の東側に建つ京都三仙堂の一つ画仙堂です。これは280年前に中国から伝来したもので、棟に鳳凰が立っています。三仙堂の残りの二つは石川丈山の詩仙堂と圓徳院境内にある歌仙堂です。この洛翠は非公開につき、これらの画像はテレビ映像から拝借しました。

3.時代祭

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 時代祭は葵祭、祇園祭とともに京都三大祭のひとつで、京都の誕生祭として桓武天皇が794年に長岡京から平安京に遷都した日にあたる10/22に開催されます。平安遷都から1100年にあたる1895年に第4回内国勧業博覧会の記念殿として平安神宮が創建され、遷都1100年記念祭の奉祝行事として開催された明治維新から延暦時代へさかのぼる時代風俗行列が時代祭の始まりです。この平安神宮には桓武天皇と京都での最後の天皇となった孝明天皇が祀られています。太平洋戦争中は中止となったものの、戦後は1950年に復活し、新たに紫式部や清少納言などの女人列が加わり、また1966年に坂本竜馬や高杉晋作といった維新志士列も加わり、さらに2007年に室町幕府執政列と室町洛中風俗列が加わった結果、現在は維新勤王隊列から弓箭組列まで20列、2000名、牛馬70頭余りで、総延長2キロにわたる行列となっています。この日の正午、維新勤王隊を先頭に御所の建礼門前を出発し平安神宮に向かいました。
 最初の写真は、先頭の維新勤王隊列の山国隊です。次は江戸時代婦人列で、近世女御装束を身にまとった皇女和宮です。次は豊公参朝列で、豊臣秀頼の参内の様相をあらわした牛車です。次は中世婦人列で、白拍子姿の静御前です。次の2枚は平安時代婦人列で、始めは女官の略装の紫式部と正装女御装束の清少納言です。次は桓武天皇の代に女官長として仕えていた百済王明信です。(10/22撮影)

97.清流園

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清流園は二条城内北側にある和洋折衷庭園で、西側の池泉回遊式庭園と東側の芝生を敷き詰めた洋風庭園から成っています。この清流園の広さは16,500㎡あり、清流園の名前は当時の高山義三市長によって命名されました。二条城が創建された江戸時代初期には、北部清流園地区は天守閣の一部が存在していたものの、1626年の二条城増改築の際に天守閣は淀城に移築されました。1915年には大正天皇即位式の饗宴の会場として利用された後、その饗宴施設は移築され、跡地は7代目小川治兵衛によって疎林式庭園に復旧されました。その後、1965年に昭和の名園・清流園が造営されました。
 最初の写真は清流園の西端に位置する今回抹茶をいただいた茶室・和楽庵で、表千家にある残月亭を模したものです。次はその和楽庵前の大きな流れの源となっている滝です。この大きな流れは、昭和の小堀遠州と言われた造園家で、城南宮楽水苑や退蔵院余香苑を作庭した中根金作らによって設計されました。次は和楽庵の前から見た美しい眺めです。次は清流園の正面にある旧角倉了以の屋敷から移築された香雲亭です。次はその香雲亭の前から見た池泉で、この庭園は河原町二条の高瀬川沿いにあった旧角倉了以の庭石800個を譲り受け、さらに全国から集めた銘石300個を使用しています。今回、二条城お城まつりの市民大茶会に参加しました。(201311/03撮影)

98.菊水庭園

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 菊水は1955年に開業した南禅寺参道にある料亭・旅館で、もともとは呉服商の茶人・寺村助右衛門の別荘です。菊水の主人は楠正成の子孫で、菊水の名は楠正成の紋所・菊水紋から取られています。ここには1895年に7代目小川治兵衛が作庭した東山を借景とした約1000坪の池泉廻遊式庭園があります。また、毎年祇園祭りの期間の7/117/12には菊水鉾の祇園囃子が披露されます。
 最初の写真はインクラインの南禅寺側に沿った坂道にある菊水の表門で、命長く健康という意味の「寿而康」の扁額が掲げられています。次は庭園の奥にある離れ「ぼたん」の前の水の流れで、この水は隣の料亭・八千代とともに琵琶湖疏水から引かれています。次はこの流れが石橋を潜って流れ込む琵琶湖をかたどった池で、脇に雪見灯籠が置かれています。次はその池の西側に立つ藪内流の三畳台目の茶席・唯庵と裏千家流の茶席・閑柳亭の2つの茶室で、唯庵は明治以前に建てられたものです。次は離れ「さくら」の前にある円山公園の祇園枝垂桜を株分けしたものといわれる桜の木です。また、庭園内に慶長9年(1604)の銘が刻印された桃山時代の石灯篭があり、これは豊臣秀吉の9回忌に豊国神社に献納されたものと伝えられています。客室には南禅寺官長から贈られた「禅」の言葉を書いた直筆の掛け軸が飾られており、この見事な庭園を眺めながら、会席料理をいただきました。(201311/20撮影)

99.流響院庭園

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 流響院は近江出身の実業家で、南禅寺界隈の別荘地化に尽力した塚本与三次が1909年に建てた邸宅・福地庵がその始まりです。この福地庵はその後二つに分割され、一つは現在アパレル企業の大松が所有する清流亭となり、もう一つは1925年に三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太の別荘・巨陶庵になり、その際に7代目小川治兵衛・保太郎親子がその池泉回遊式庭園を作庭しました。太平洋戦争後の1945年に米軍に接収されて洋風に改築されたものの、祇園祭の山鉾の綴織などを制作している龍村美術織物が1948年に取得し、織寶苑と名付けられました。その後、2005年に東京に本拠を持つ宗教法人・真如苑に譲渡され、2年半かけて大正時代の図面や写真を参考にして、主屋や庭園を巨陶庵の時の形に修復し、2009年に流響院として完成し現在に至っています。
 最初の写真は数奇屋造りの主屋です。次は主屋の前に広がる東山連峰を借景とした池泉の周りの紅葉が美しい庭園です。次は琵琶湖疏水から引きこまれた水が二段の滝から落ち、守山石や鞍馬石などの名石や木立の苔の間を流れ、主屋の前の園池に注ぎ込んでいます。次は母屋の北側に位置する茶室・凉流亭です。次はその凉流亭から見た色づいたドウダンツツジの庭園です。この流響院は春と秋の数日間の参観日以外は非公開につき、これらの画像はテレビ映像から拝借しました。

100.真々庵庭園

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真々庵は、鐘淵紡績重役で佐竹本三十六歌仙絵巻の分割購入者の一人であった染谷寛治の元別邸です。この真々庵は数寄屋造の母屋と樹木に覆われた庭園から成っており、5千㎡ある庭園は東山を借景とする池泉回遊式庭園で、7代目小川治兵衛が1909年に作庭しました。その後1961年に、パナソニック創業者の松下幸之助が社長を退任してPHPの活動の拠点とするために、この別邸を購入しました。PHPというのは1946年に創設された「Peace and Happiness through Prosperity」の頭文字で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」との意味が込められています。幸之助は自らの感性と哲学に基づいて京都の庭師・川崎幸次郎とともに、この庭園を大改造して松下流に整備しました。ここは真実真理を探究する道場であり、また辺りがしんしんと静かであることから幸之助自身が真々庵と命名しました。
 最初の2枚の写真は、兜門を潜り、右手の木戸から入って見える庭園で、貴重な白砂が敷き詰められた歩道の先に美しい紅葉に彩られた池が見えます。次はその池と木々の向こうに東山が連なる母屋からの眺めです。庭の脇には「真々茶室」が建てられています。次は幸之助がその形を愛でたという赤松です。次は幸之助が瞑想に耽ったという敷地の北側に広がる白砂が敷かれた杉木立です。この真々庵は、非公開につき、これらの画像はテレビ映像から拝借しました。

101.小石川後楽園

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 小石川後楽園は、江戸時代初期の1629年に、徳川家康の11男で御三家・水戸藩の初代藩主である徳川頼房が、小石川にあった江戸藩邸の中屋敷の庭として造り、2代藩主の光圀が完成させた回遊式築山泉水庭園です。後楽園の名は、光圀が明の儒学者である朱舜水の意見を用いて名付けたもので、范仲淹の「岳陽楼記」の句「先天下之憂而憂後天下之楽而楽」(天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)に由来しています。この小石川後楽園は浜離宮恩賜庭園とともに国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
 最初の2枚の写真は、7万㎡ある後楽園の中心に広がる大泉水で、神田上水を引入れ、池の北寄りに蓬莱島を配しています。先端にある鏡石は庭師・徳大寺佐兵衛に因んで徳大寺石と呼ばれています。次は光圀が建てた園内最古の建物である得仁堂で、光圀18歳の時に史記「伯夷列伝」を読んで感銘を受け、中に伯夷、叔斉の木像を安置しています。次は円月橋で、これは朱舜水が設計し、名工・駒橋嘉兵衛が造った石橋で、水面に映る姿が満月になることからこの名がつきました。次は後楽園の東端に位置する内庭で、ここはもともと水戸藩の書院の庭であったところで、江戸時代は「うちの御庭」と呼ばれ、唐門によって大泉水のある「後園」と分かれていました。後ろに隣接する東京ドームが見えています。(201411/17撮影)

102.六義園

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六義園(りくぎえん)は、5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けて小姓から側用人に出世した川越藩主・柳沢吉保が、綱吉から下屋敷として与えられた駒込の地に、吉保自ら設計、指揮し7年の歳月をかけ1702年に造営完成させた回遊式築山泉水庭園です。六義園の名は、中国の古い漢詩集である「毛詩」に記されている風、賦、比、興、雅、頌の六義の分類法を、紀貫之が和歌に転用した「六体」に由来します。吉保の死後、六義園は荒れてしまったものの、明治の1878年に三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の別邸となって修復され、その後1938年に岩崎家から東京市に寄贈され、1953年には国の特別名勝に指定されました。
 最初の写真は、六義園の中央に広がった大泉水を池畔のひとつである出汐湊からみたもので、中の島には男性の背山と女性の妹山が配置されています。次は中の島の南にある小さい蓬莱島とその向こうにみえる千鳥橋です。次は中の島に架かっている田鶴橋と色付き始めた紅葉です。次は庭園の中で一番高い築山である藤代峠の北側の小道である「ささかにの道」です。「ささかに」とはクモの古い呼び名で、この小道がクモの糸のように細いところから、名付けられました。次は千鳥橋の奥に位置する滝見茶屋で、左手のあずまやの横を渓流が流れ、左手奥には水分石の石組みが見えます。(201411/17撮影)

103.足立美術館庭園

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 足立美術館は120点を数える横山大観のコレクションで知られる島根県安来市にある日本画の美術館で、地元出身の実業家・足立全康が1970年に創設しました。足立全康は「庭園もまた一幅の絵画である」との考えから、美術館の前に165,000㎡の見事な日本庭園を造営しました。この日本庭園は、米国の日本庭園専門誌ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーディニングの2013年日本庭園ランキングで、あの桂離宮を抑えて、10年連続1位にランキングされています。また陶芸館には、河合寛次郎と北大路魯山人の陶芸作品も展示されています。
 最初の写真は杉苔を中心にした京風の苔庭です。正面にある茶室・環翠庵の前にせせらぎが流れ、太鼓橋が掛かっています。また右手の一文字橋の手前に岬灯籠がみえます。次の2枚は生きた日本画を表した足立美術館の主庭である枯山水庭園です。左端の立石が峻厳なる山を表し、ここから流れ落ちた滝水が清流となり、白砂の大河へと注ぎ込む様を表現しています。2枚目の奥に、1978年に開瀑した高さ15mの亀鶴の滝がつくられています。次はここで一番最初に作庭された池庭で、石橋を渡った正面には煎茶室・清風があります。その前の白砂の中にある石は、鳥取県産の名石・佐治石です。次は横山大観の名作「白沙青松」を日本庭園で表現すべく、足立全康が作庭した白砂青松庭です。(201411/22撮影)

94.孤篷庵庭園

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 孤篷庵は大徳寺の塔頭で、芸術家として名高い小堀遠州が1612年に遠州の甥にあたる大徳寺184世・江雲宗龍を開祖として、同じ大徳寺の塔頭・龍光院内に建てた庵がその始まりです。後の1643年に現在地に移し孤篷庵の建物と庭園が造立されました。その後1793年の火災で消失したものの、1797年に遠州を崇拝していた大名茶人で松江藩主・松平不昧公によって、焼失前の古図に基づいて再興されました。篷とは茅などをこものように編んで舟の上を覆う苫のことで、孤篷とは孤舟を意味しています。
  最初の写真は、方丈の北西部分に置かれた十二畳の茶室・忘筌席で、床には狩野探幽の水墨画が描かれています。次は忘筌席の露地で、西側の露地に面して広縁があり、中敷居を設け、上半分を明かり障子、下半分を吹き抜けとし、舟屋の入り口のような舟入板の間となっています。次は茶室の北西に張り出して建てられている書院・直入軒で、遠州が居室として使用していました。次は直入軒南庭の近江八景の庭で、遠州の故郷である近江の湖景になぞらえて造られています。次は直入軒の北隣の草庵造りの茶室・山雲床で、障子の向こうの露地庭に手水鉢と竿の下部にマリア様を刻んだ灯籠が見えます。ここ孤篷庵の庭園は国の史跡・名勝に指定されています。今回、秋の非公開寺院特別公開で訪問しましたが、撮影禁止につき、画像は受付で購入した絵葉書から拝借しました。
20159/29訪問)

11.下鴨神社

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 下鴨神社は正式名称を賀茂御祖(かもみおや)神社といい、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその子神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)が祀られています。上賀茂神社とともに賀茂社と総称され、紀元前581年の第2代綏靖天皇の時代から祀られていたという伝承があります。また、上賀茂神社と下鴨神社の祭礼である葵祭は544年から始まったとされています。平安時代には、王城鎮護の神社として特別の信仰を受け、「源氏物語」や「枕草子」など王朝文学にしばしば登場しています。今年2015年春に21年毎の式年遷宮が行われ、東・西本殿が大修理されました。
 最初の写真は国指定の史跡「糺の森」から続く楼門で、左右に延びる回廊の西側に、葵祭の時に勅使が剣を解く「剣の間」があります。次は葵祭には勅使が御祭文を奏上し、歌舞「東遊び」が奉納される舞殿です。次は今回遷宮された国宝に指定されている東・西本殿で、撮影禁止につき、パンフレットから借用しました。次はみたらし川にかかる橋殿で、ここで名月管絃祭が奉納されます。次はお供えものを調理する大炊殿の東隣にある「葵の庭」で、応仁の乱で焼失した賀茂斎院御所にあった双葉葵の自生する庭を再興したものです。ここ下鴨神社1994年古都京都の文化財のひとつとして世界遺産に登録されました。今回、秋の特別拝観で訪問しました。20159/29撮影)

95.妙心寺霊雲院庭園

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 霊雲院は妙心寺の塔頭で、龍泉庵、東海庵、聖澤院と共に妙心寺四派の一つ「霊雲派」の本庵です。1526年に妙心寺25世・大休宗休が師の龍安寺・特芳禅傑を勧請開祖として創建し、狩野派始祖の狩野正信の子・元信が逗留したことから狩野元信寺とも呼ばれています。
最初の写真は方丈の唐門で、方丈は1543年に栂尾の閼伽井房を移築したのち、1693年に再建されています。次の方丈南庭は、全面が苔で覆われ、東側に赤松、西側に樹齢三百年といわれる五葉の松が植えられています。次は室町時代、1532年頃に建立された「書院」で、手前から四畳半床付、五畳半棚付、その奥に三畳の間があり、銀閣寺の東求堂「同仁斎」とともに、東山時代の初期書院造の遺構として知られ、後奈良天皇がたびたび行幸したことから「御幸の間」と呼ばれています。この書院のふすまには、狩野尚信の弟子・片山尚景による山水図が描かれています。次の書院前庭は、10坪ほどの小さな庭に、枯滝と蓬莱山水を兼ねた20個ほどの石組みを配した縮小蓬莱枯山水式庭園で、相国寺慈雲庵の子建西堂の作庭と伝えられ、国の名勝・史跡に指定されています。子建西堂は、あの龍安寺の石庭を作庭したとも言われています。次は霊雲院が所有する狩野元信が描いた紙本水墨淡彩「琴棋書画図」です。今回、京の冬の旅・非公開文化財特別公開で訪問しましたが、撮影禁止につき、1枚目の唐門以外の画像は方丈で購入した絵葉書から拝借しました。 (20163/16訪問)


96.京都府立植物園

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 京都府立植物園は、賀茂川と北山通に接し、東山連峰、比叡山、北山を望む場所にあり、1924年に開園した日本で最初の公立植物園で、面積24万㎡の広大な敷地に12000種類、12万本の植物が植えられています。太平洋戦争後の1946年から12年間連合軍に住宅地として接収されたのち、1961年に再公開されました。
最初の写真は、正門を入って正面に見える観覧温室です。これは1992年に竣工した日本最大級の回遊式観覧温室で、前面に水連が浮かぶ鏡池を配置し、北山連峰のシルエットを取り入れたという曲線状の屋根が印象的です。その中には4500種類、25000本の熱帯植物が植えられています。次は半木(なからぎ)の森と鴨が泳ぐ池で、半木(なからぎ)の森はケヤキ、シイ、カシなどが混生する園内唯一の自然林です。森の中ほどに西陣織の神を祀った半木神社があります。次は半木の森の東に広がる梅林で、60品種、150本の梅の木が今まさに満開でした。次は園北東部にあるつばき園で、250品種・600本のツバキが植栽されています。次はつばき園の東隣にある桜品種見本園に咲いていた早咲きの桜です。3月末から4月の初めには園内中央にある桜林で、満開のソメイヨシノが咲き誇ることでしょう。20163/16撮影

97.神戸市立相楽園

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 相楽園は兵庫県庁の北側に位置し、旧三田藩士・小寺泰次郎が明治末期の1911年に、私邸とともに築造した神戸市の都市公園で唯一の日本庭園です。この庭園は当初「蘇鉄園」と呼ばれていたが、1941年に神戸市の所有となった際に、中国の「易経」にある「和悦相楽(わしてよろこびあいたのしむ」に因んで、「相楽園」と名付けられました。この相楽園は2万㎡ある池泉回遊式庭園で、中央にため池を改修したひょうたん型の池を配置し、小川や複数の滝から水が流れ込んでいます。
  最初の写真は、総けやき造りの正門を入ったところにある樹齢300年の蘇鉄園で、鹿児島から取り寄せたものです。この蘇鉄園の向かいに、荒木村重が1567年に花隈城の鬼門除けに植えたと伝えられる大クスノキが立っています。次は小寺泰次郎の長男で元神戸市長の小寺謙吉が、1910年頃に建築した円形の塔屋が特徴的な厩舎です。次は英国人貿易商のハッサムが1902年頃、北野町の異人館街に建てたハッサム住宅で、1963年にここに移築されました。庭の正面に阪神・淡路大震災時に屋根から落下した煙突が傾いて置かれています。次は神戸市の迎賓館施設としての相楽園会館前から見た池の全景で、正面の池畔に離れだった茶室「浣心亭」が見えます。次は江戸時代に、姫路藩主が河川での遊覧に使っていた川御座船の屋形部分を1980年に移築した船屋形で、黒漆塗りの上に金箔の飾り金具が打たれた華麗な造りとなっています。もう少しで平戸つつじが満開となります。
20164/27撮影


12.生田神社

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 生田神社は天照大神(あまてらすおおみかみ)の幼名あるいは妹神と伝えられる稚日女尊(わかひるめのみこと)が祀られています。その創建は、201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で稚日女尊が現れ、「私はいくたのながさの国に居りたい」との神託があり、生田神社が祀られたと日本書紀に記されています。平安時代の「新抄格勅符抄」に、806年に神社の封戸である神戸(かんべ)244戸が朝廷より生田神社へ与えられたと記されており、それが現在の神戸という地名の語源になったといわれています。また、生田神社の境内で神職が酒造りをしたことが灘の酒造りの起源とも伝えられています。

 最初の写真はいくたロードの正面に立つ第二鳥居で、阪神大震災前は石製だったが、伊勢神宮から譲り受けたヒノキ材で1995年と2015年に建て替えられました。奥に見えるのが朱色の第三鳥居です。次は震災で柱が損傷した楼門です。次は震災で一番被害を受けたものの見事に復活した拝殿です。次は源平合戦の舞台となった史跡・生田の森で、古くはフラワーロードあたりまで及ぶ広大な森林でした。境内には、「敦盛の萩」、「箙(えびら)の梅」、「梶原の井」、武藏坊弁慶が奉納したとされる「弁慶の竹」など源平ゆかりの史跡があります。4月上旬には、この生田の森で曲水の宴が行われます。次は拝殿の西に広がる生田の池です。(20165/08撮影)


13.岩清水八幡宮

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 石清水八幡宮は京都府八幡市にある神社で、859年に奈良・大安寺の行教が八幡宮総本社の宇佐神宮のお告げをうけて勧請したと伝えられています。この八幡宮は、京都の南西の裏鬼門を守護する神社として、北東の鬼門の延暦寺とともに崇敬されました。また、源氏諸氏族が武神として信仰し、源氏の興隆とともに鶴岡八幡宮など、石清水八幡宮から各地に八幡宮が勧請されました。その祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・応神天皇、比大神(ひめおおかみ)、息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと)・神功皇后の3柱です。9/15に開催される石清水祭は葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられています。また、その壮大な山麓の社殿を八幡宮と勘違いしたという徒然草・第52段「仁和寺にある法師」の話でも知られています。

 最初の写真は八幡鳥居形式の一ノ鳥居で、「八幡宮」の扁額は、一条天皇の勅により藤原行成が書いたものを寛永の三筆・松花堂昭乗が書写したものです。次は南総門で、左側に神楽殿が連なっています。次の3枚は楼門から奥へと舞殿・幣殿・本殿が続く社殿で、いずれも今年の2月に国宝に指定されました。現在の社殿は1634年、徳川三代将軍家光の修造によるものです。本殿は手前の外殿と奥の内殿の前後二棟が連なる八幡造りで、その桧皮葺屋根の軒が接するところに織田信長が寄進した長さ21.7m、幅54cm、深さ21cmの通称「黄金の雨樋」が設置されています。今回、秋の非公開文化財特別公開で訪問しました。(201610/30撮影)

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